尻高山・高壺山・砲台山総合概念図

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  • 27
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2011年12月11日 (日)

宮ノ洲古墳の正しい位置について

三角縁神獣鏡他4面の古鏡を出土した宮ノ洲古墳は現在は消滅している。そのため、その位置について、いまなお誤解されている方が多いようだ。『山口県史 資料編 考古1』をみれば正しい事実は把握できるが、一般の方には入手が困難と思われるのでここで述べていきたい。(県内の図書館には配架されています。)

 享和2年に発見された宮ノ洲古墳は、昭和4年の日本石油下松製油所進出後も、残存の墳丘部分は保存されていた。その位置は、緑丸印、日立製作所との境界線近くの製油所敷地内にあったが、昭和27年工場拡張により完全に消滅した。

 黄丸印が旧磯部邸(旧矢嶋邸)で「怒龍の松」伝説(松の根元に琳聖太子が葬られた)の場所である。昭和初期、この「怒龍の松」伝説地と宮ノ洲古墳所在地を混同する見解があらわれ、その後も旧矢嶋邸の説明で同様の記述をするものが後を絶たず、近年刊行された図書にもこの説を掲載しているものがあるがもちろん誤りである。(補注参照)

 赤丸印は、古墳消滅後に地元ロータリークラブにより下松共同防災センター横(現東洋鋼鈑工場敷地内)に作られた「宮ノ洲古墳跡」のモニュメント。モニュメントといっても残存していた墳丘の台形地形をコンクリ製の枠で模した花壇で、古墳を移築したものでも何でもない。「宮ノ洲古墳跡」の石柱と看板があり、また、隣接する旧磯部邸の「怒龍の松」伝説との混同から、多くの地方史文献、Web等に引用されたため、さらに混乱が広がり、「宮ノ洲古墳跡」のモニュメントの場所が宮ノ洲古墳であり、さらにひどいものになると、宮洲古墳は琳聖太子の墓であるという誤解もあるようである。

伝承は伝承として、目くじらを立てるつもりはないが、宮ノ洲古墳と関連づけるのは困る。正しい宮ノ洲古墳は緑丸の位置で、宮ノ洲山(桂木山)の山頂ではなく、かなり比高の低い東麓に存在した。宮ノ洲古墳は4世紀代の古墳で、もちろん、伝説上の人物にすぎない琳聖太子の墓ではない。

 

 なお、上記の看板は別の場所に移転し、「宮ノ洲古墳跡」のモニュメントも現在立入できないが、道路側にわずかに確認でき、住宅地図にも「宮ノ洲古墳跡」の表示が残っているので、まだ誤解される方がいるかも知れない。何度も繰り返すが、宮ノ洲古墳の位置は現JXエネルギー敷地内の緑丸印だが、消滅し、立ち入ることもできない。

 また、「遺跡ウオーカー」の位置も誤りである。

(補注) 管見では、「怒龍の松」伝説と宮ノ洲古墳を混同した見解の初出は野原祐三郎『山口縣自治大観』(昭和3年)である。しかしながら、そもそも、「怒龍の松」伝説そのものも磯部家の古文書等には存在せず、矢嶋邸になってから流布した新たな伝承の可能性が高い。その伝承が拡張され、遂には宮ノ洲古墳と混同されるようになったものである。

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