周防大島 嘉納山に砲台はなかった
はじめにお断りしておくが、筆者は軍事マニアでも何でもなく、住民の記憶・伝承と遺構を関連づけることに関心があるだけである。
昨年、久しぶりに嘉納山を訪れた。以前は見過ごしがちの三角点だけが印象に残っていて、山頂の印象はなかった。今回、山頂のコンクリ遺構が目について、それをほとんどのガイド本、山のHPで高射砲台の基礎としていることに違和感を覚えた。明らかに違う。
これらは二次情報で参照元の一次情報と考えられるものに以下のものがある。
① 上掲の遊歩道の看板に三ツ石古戦場跡の記述の後に「第2次大戦中には陸軍の高射砲台陣地があった」と記述されている。
② 『岩国・柳井の歴史』で嘉納山高射砲設置跡として山頂のコンクリ基礎の写真が掲載されている。
③山口県教育庁文化財保護課編『山口県の近代化遺産: 山口県近代化遺産(建造物等)総合調査報告書』で旧嘉納山高射砲台 久賀三ツ石 昭和? RCと掲載されている。
しかし、識者から嘉納山にあったのは砲台ではなく、海軍嘉納山特設見張所であると指摘されている。
参考)fatherのHP
自然、戦跡、ときどき龍馬
佐藤正治「周防大島町戦争遺跡案内」(周防大島町文化振興会『周防大島町郷土双書 ②』所収)
アジア歴史資料センターの資料にも、県文書館の関係文書にも、砲台の記述はなくあるのは特設見張所の記事だけである。誤った情報の引用の繰り返しにより、砲台であるという誤った情報が固定化されているのは遺憾なことである。
それでは、山頂の遺構が砲台の遺構でないことを検証していきたい。
これが山頂の遺構である。正8角形上にスリットが一部入り、内側は正8角形上に刳り貫かれている。
外側正八角形の1辺 230cm、対角点距離590cm
内側正八角形の1辺 105cm、対角点距離260cm
スリット 幅28cm、長さ145cm
スリットがわかりやすいように別の方向からの画像である。
一方、これが最近発見された笠戸島電波探信所の11号電波探信儀の基礎である。撮影距離の関係で正8角形であることがわかりにくいが、同じようにスリット付きの正八角形である。電探設置後のため、内側の多角形部分はコンクリが張られアンカーボルトが設置してある。
外側正八角形の1辺 240cm、対角点距離580cm
このサイズはほとんど同じである。
内側アンカーボルトの1辺 81cm、対角点距離210cm
内側については、嘉納山は刳り貫き範囲であり、アンカーボルトの径より大きくなる
スリット 幅41cm、長さ130cm
以上のようにサイズは微妙に異なるも形状は同一である。また、笠戸島の場合、配線溝(スリット)の右側に配線取り回し坑と見られる穴があったが、嘉納山の場合もスリットの右側に穴を塞いだような不自然な石がある。これらのことから、嘉納山の山頂の遺構は11号電探の基礎であることは明白である。内側が刳り貫かれた状態のままであることは、おそらく、電探設置前に中止になった可能性を示唆している。
また、三ツ石古戦場跡の看板の側のこの2つの遺構を砲台としている例もあるが、側面に穴が空いており、中を見ると中空になっており、水槽と考えられる。
本来、水槽は地盤を掘って築造されるが、この一帯は集塊石の地盤で掘り込みが困難なため、地表に石垣を盛り、その上に水槽を築造している。
なお、この水槽を砲台建設に備えて新たに建設したというする説もあるが、その根拠、必然性が不明である。
なお、筆者は砲台を建設しようとしていたという住民の伝承をまったく否定するものではない。あるいは建設工事中でどこかにその遺構が埋もれている可能性が皆無とはいえない。(もし、可能性があるとすれば、畑能庄からの車道の峠で嘉納山方向の尾根とは反対側の尾根上、現在、電波塔が林立するあたりではないかと筆者は考えている)
だが、少なくとも、嘉納山山頂周辺に現存する遺構は特設見張所のものである。特設見張所の遺構が地元では砲台と伝えられている例は各地にあり、嘉納山もそのひとつであると考える。
したがって、看板は補修の際に特設見張所があったと修正して欲しい。
また、近代化遺産報告書は戦争遺跡の基礎的情報源として紹介している例が多く、十分な調査を行って改訂していただきたい。
おって、ハイカーの皆さんには山頂で砲台の基礎であるという会話が出たら、電波探信儀の基礎であるとうんちくを語っていただきたい。そうすれば、いずれ、正しい理解が広まると思う。