尻高山・高壺山・砲台山総合概念図

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2012年5月 8日 (火)

宮ノ洲古墳と埴常社

( 承前)
  宮ノ洲古墳発見の経緯を記した「宮洲開発地石室覚」(山口県文書館蔵、徳山毛利家文書)という有名な古文書がある。 あまり注目されていないが、この中に、貴人の御廟所と思われるので小社を建立し祀りたいという宮ノ洲屋幸吉の願いを受けて、石室前に「埴常(はにとも)社を建立したという記述がある。したがって、この埴常社があった位置が古墳のあった位置である。

 埴常社の位置を記した絵図があることは、ほとんど知られていない。「宮洲塩田図」(県立山口博物館蔵、但し、非常設展示)である。この中には、宮ノ洲山東麓に参道に灯籠を建て、周りを樹木で囲み、木製の祠を祀った埴常社が描かれている。後世の位置をめぐる混乱を一笑するように、約200年前の絵図で古墳の正確な位置を知ることができるのである。

 また、大正6年頃の宮ノ洲付近の写真には、埴常社の参道、灯籠、樹木が映っている。古墳の姿は直接映っていないが、後方の森の中にひっそりと眠っている。

 現在、宮ノ洲古墳は消滅し、古墳から出土した遺物はすべて市外へ運ばれ、古墳の直接の遺構、遺物は市内には一切存在しない。一方、工場進出に伴う住民集団移転により、埴常社の遺物は二宮町3丁目児童公園内に移転している。

今も残る第1の遺物は「埴常神鎮座處」の銘文をもつ石祠である。側面に「明治24年8月23日」の銘文が記されている。明治24年は再発掘年の可能性が高い年で8月23日は埴常社の年祭日である。おそらく、再発掘にさいし建立されたものであろう。

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第2の遺物は石祠の側にある灯籠である。銘文には埴常社が建立された享和3年を示す「享和癸亥」、磯部家の人物である「菅原姓増章」が記されている。菅原姓増章は宮洲開発地石室覚著者、磯部際右衛門である。(『譜録』(徳山毛利家文庫、県文書館蔵)参照)

これが大正6年の写真に映っている灯籠である。

そして、木製の祠が「はんどうさん」として今も集会所内で祀られている。この祠は「宮洲開発地石室覚」に記された大きさより小ぶりのため再建されたものである可能性もあるが、その重要性は変わらない。

宮ノ洲古墳は消滅し、古墳から出土した遺物はすべて市外へ運ばれ、古墳の直接の遺構、遺物はいまや市内には一切存在しない。

しかし、宮ノ洲古墳発見時に建立された埴常社を描いた「宮洲塩田図」と今も移転して存在する埴常社の灯籠、祠は、かってこの市内に宮ノ洲古墳が存在したことをしめす重要な文化財である。この文化財により、かって市内に宮ノ洲古墳が存在したという事実は、市民の記憶に末永く残ることであろう。