尻高山・高壺山・砲台山総合概念図

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    尻高山・高壺山・砲台山総合概念図

笠戸島スカイハイキングコース地図(「地理院地図」版)

十種ヶ峰

  • 福谷池から見る十種ヶ峰
    十種ヶ峰福谷池コース

鷹の止まり山

  • 5 山道
    鷹の止まり山(04.04.17)

山上山

  • 11
    山上山

廿木山

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    廿木山

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  • 05 山道が続く
    枡形山

四熊ヶ岳庄原コース

  • 17 日本の正しい秋
    四熊ヶ岳庄原コース

太華山大楠ルート

  • 02大楠バス停付近からめざす鞍部を遠望する
    大楠から牧ヶ岳南の鞍部に出て、北進すれば牧ヶ岳、太華山へ、南進すれば水谷山を経て本浦に出ます。太華山のバリエーションルートの一つですが、南進して水谷山方面へ進むと森の中のパノラマ展望ルートになります。大楠から鞍部までの画像を掲載しています

太華山縦走

  • 06 大島山の分岐に建つ石柱
    太華山縦走

千坊山西の庄ルート

  • 27
    千坊山西の庄ルート

小島山

  • P1010001
    小島山

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2015年10月

2015年10月18日 (日)

2015下津令遺跡現地説明会(2)

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古墳時代の竪穴住居(SI202)。西壁にかまどを持つ。東半分は後世に削平されている、

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貼り床。煙道検出中。須恵器片がないため、SI203より古いらしい。

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廃棄土抗(SI201)。廃屋住居が転用された可能性もあるとのこと

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高坏坏部、脚部、器台、ミニチュア壺の出土が多く、祭祀遺構の可能性もあるらしい。

ここで、地元の方より、「(調査区外の)土手のこっちの方がようけあるはずじゃがのう。掘らんのかね」「いや~掘りたいところをほれんのですよ」とのやりとりがあり。

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炉跡(炉壁が出土した)

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メッシュ単位で遺物を取り上げている途中。木炭はこの炉で使われた可能性があるらしい。

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ここにも姫島参黒曜石製の石鏃があった。

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須恵器は比較的新しい形式のようだ。

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炉壁。左に墓出土の土師器皿。さらに左に土師器足鍋、瓦質土器足鍋があるが、毎度おなじみのため省略。

数年前の某説明会では、遺物がほとんど取り上げられ、パネルが立ててあるだけという状態で幻滅したが、今回の説明会は、遺物が出土した状態で説明されたので非常に良かった。今後もこのような説明会を期待したい。(15.10.17)

2015年10月17日 (土)

2015下津令遺跡現地説明会(1)

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久しぶりの現地説明会である。確か、昨年もこの遺跡の現地説明会に来たはずだが、遺物の写真を撮っていると、おねえさんに「まだ、ブログにも投稿しないでくださいね」といわれ、一気にやる気がなくなり御蔵入りになってしまった。

さて、本年は、やさしいおにいさんに「自由に撮影してください。ブログに投稿されてもいいです」といわれ、やる気が復活したので報告したい。

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中世の堀立柱建物

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木炭焼成抗

Si203img_2111古墳時代の竪穴建物SI203。北壁にかまどを持つ。手前の段は入口ではなく、後世の遺構。

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東西壁近くが黒くなっている。これは住居を廃棄したときの木材の痕跡と考えられている。

住居の左側および奥側に見える土抗は中世の墓で、SI203と無関係。

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かまど周辺に土師器片、須恵器片がある。

Sb204img_2119排水溝をもつ掘立柱建物

Sb204img_2120柱穴には石が詰められている。

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住居の前には湿地帯が広がっている。

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遺跡とは関係ないが、水田の排水土管が周辺にあった。現代になっても、水田の地下水位が高かったようだ。(続く)

2015年10月 7日 (水)

大地之森

豊井小学校前をすぎ、さらに東に進み、江口幼稚園をすぎ、消防倉庫を見るとすぐ、石祠とお堂がある小さな森がある。

「東豊井村由来付立」に

 一 大地之森 原村ニ有

とある。

現在は北側が駐車場となり、樹木が少ないが、『宮洲塩田図』を見ると、北側はずっと大きな森だったようであり、現在も樹木に禁忌が働いているせいか、車道が不自然に曲がっている。

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東に石祠、西にお堂。

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石祠

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お堂の手前に、石祠の残骸があり、以前はこちらにあったのであろう。

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左の樹木の側に車道がある(写真には写っていない)のだが、不自然に曲がっている。

なお、大地ノ森あるいは王子の森は各地にある。

2015年10月 6日 (火)

鷲頭山・烏帽子岳稜線上の謎の標石について(小結)

承前

明治維新後、集落の共有林は、官有林(国有林)とされたが、明治35年、林野下戻により、町村有とされ、町村の基本財産に編入された。各町村では、境界標石を埋設、造林を行った。

久保村でも、明治35年に村有林に譲渡後、明治38年から10カ年の造林を実施、大正元年から大字河内山林200町歩、40カ年の人工造林計画を実施、大正4年には888間の防火線工事を行っている。

ところで、「久四三」標柱のあった字北山の集落共有林は、明治15年、地元からの申し出にも関わらず、他の集落共有林と同様、官有林とされた。その後、林野下戻しを受けたと考えられる。

以上の事実を勘案すると、これらの標石は、林野下戻を受け造林が行われた時に埋設された境界標石の可能性が高い。旧村有林標石は、各地でみることが多いが、この標石には番号が刻まれているのが特徴である。番号は、地域的に連続していないので、林野下戻の際、付与された地番ではないだろうか。明治39年に、下松町、久保村、浅江村共有林を下松町に譲渡した際の報告に地番(整理番号)が付記されている例がある。

ただ、尾根上の標石番号と同一番号の標石が谷側に存在するかどうか確認できていないことが検討課題である。

なお、官有林認定された際に埋設された可能性もあるが、その可能性は小さいと考えている(了)