尻高山・高壺山・砲台山総合概念図

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    尻高山・高壺山・砲台山総合概念図

笠戸島スカイハイキングコース地図(「地理院地図」版)

十種ヶ峰

  • 福谷池から見る十種ヶ峰
    十種ヶ峰福谷池コース

鷹の止まり山

  • 5 山道
    鷹の止まり山(04.04.17)

山上山

  • 11
    山上山

廿木山

  • 32 270ピークに戻る
    廿木山

枡形山

  • 05 山道が続く
    枡形山

四熊ヶ岳庄原コース

  • 17 日本の正しい秋
    四熊ヶ岳庄原コース

太華山大楠ルート

  • 02大楠バス停付近からめざす鞍部を遠望する
    大楠から牧ヶ岳南の鞍部に出て、北進すれば牧ヶ岳、太華山へ、南進すれば水谷山を経て本浦に出ます。太華山のバリエーションルートの一つですが、南進して水谷山方面へ進むと森の中のパノラマ展望ルートになります。大楠から鞍部までの画像を掲載しています

太華山縦走

  • 06 大島山の分岐に建つ石柱
    太華山縦走

千坊山西の庄ルート

  • 27
    千坊山西の庄ルート

小島山

  • P1010001
    小島山

うんちく・小ネタ Feed

2016年2月23日 (火)

あ、あれは、岬の先端のあれは何だ?未知の前方後円墳かそれとも?

Img_2553

いや、山頂に何か記念碑のようなものが立っている。

Img_2555

正解は雑木が皆伐され、見晴らしの良くなった長岡外史公園。

前方公園か(笑)。

しかし、この公園、手前は岩盤を削ったからいいものの、裏の海側は木を切りすぎると崩れないか?

そして、左は現在工事中の国民宿舎大城。平成28年11月オープン予定。工事中のため、長岡外史公園も立ち入り禁止中。

2015年10月 7日 (水)

大地之森

豊井小学校前をすぎ、さらに東に進み、江口幼稚園をすぎ、消防倉庫を見るとすぐ、石祠とお堂がある小さな森がある。

「東豊井村由来付立」に

 一 大地之森 原村ニ有

とある。

現在は北側が駐車場となり、樹木が少ないが、『宮洲塩田図』を見ると、北側はずっと大きな森だったようであり、現在も樹木に禁忌が働いているせいか、車道が不自然に曲がっている。

P1011166

東に石祠、西にお堂。

P1011164

石祠

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お堂の手前に、石祠の残骸があり、以前はこちらにあったのであろう。

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左の樹木の側に車道がある(写真には写っていない)のだが、不自然に曲がっている。

なお、大地ノ森あるいは王子の森は各地にある。

2015年6月28日 (日)

虎ヶ岳・烏帽子岳・茶臼山完全縦走・外伝(3)(続)葉山・山名考

前回の記事において、現在、葉山と呼称されているピーク(4等三角点「大崩」)が、江戸期には葉山と呼ばれる山域に属していなかった可能性が大きいことを指摘した。葉山は三井村境の山であり、むしろもう一つの御立山である深山の可能性がある旨指摘した。

今回、「三井村清図」、「浅江村清図」と現代の地形図を比較参照してみた。
 まず、葉山について調べると、新山の祇園寺後方の山は、後に境界が変更になるためか、両図ともに描かれているが、「三井村清図」には、「葉山」と山名が記されており、三井村から浅江村に変更になったと御立山であるという境目書の記述に一致する。葉山は、前回引用した史料からも、浅江村、三井村境の山域であることが確定した。
 一方、深山は、「浅江村清図」の隣村境界の記述が河内村から豊井村に変わる地点の山域に「深山」という山名が記され、これはほぼ現在の茶臼山に同定できる。したがって、「深山」でもない。
 次に、現在の下松・光市境界線の形状は江戸期とほとんど変わりがないので、地形図と「浅江村清図」を比較参照し、現在、「葉山」とされている山域を調べると、「大崩山」という山名が見える。この山は、明治期に林野下戻された入会山の「大崩山」と同一とおもわれる。一般的に、「浅江村清図」では、「河内村地下図」とは異なり、山名表記の位置が、稜線上のピークではなく、稜線やや下方の尾根付近を指しているようにもみえるが、山域としてみれば、間違いなく「大崩山」である。
 したがって、現在、葉山とされている4等三角点「大崩」付近は、江戸期にも大崩山と呼ばれていたと考えられる。

本記事の無断転載はお断りします。
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2015年6月20日 (土)

旧・武居酒場の石垣

Img_1941

一見、小さな城を思わせるようなこの石垣。昭和30年代、この前を通って登校する小学生たちが、遠くから勢いをつけて駆け上がりどこまで達することができるかを競い合い、学校から危ないからと注意がでた。

Img_1937_2そんな昔から50年。当時を知る人ももうあまりいなくなっただろうか。

これは旧・武居酒場の石垣である。

最近、別のF酒場として紹介されているブログがあるため、正しい情報を記しておく。

2015年6月 9日 (火)

虎ヶ岳・烏帽子岳・茶臼山完全縦走・外伝(2)葉山・山名考

4等三角点「大崩」のピークは、現在は「葉山」と呼ばれている。付近の尾根山を広く葉山と呼ぶので、仮称として名付けられたが、現在、この山名は定着している。
 定着している山名にいまさら異論を挟むつもりはなく、今回、ここで考察したいのは、はたして、江戸期にこの付近は「葉山」とよばれる山域だったのだろうかということである。

付近の尾根山を広く葉山と呼ぶ論拠として考えられるのが、「浅江村地理志」の大山の項である。
 「一 大山
    葉山
    深山
     但當村にて之大山ニ御座候、高サ十八丁位ヨリ十五丁位有之、葉山ヨリ西ハ魚縁岡懸と申所引續キ後ロハ徳山御領ニテ周廻り難相知候事」

魚縁岡崖は現在の崖山西側、下松市、光市の境界付近で、一見、魚縁岡懸より東側がすべて葉山と呼ばれているようにも解せるが、深山との相対位置に注目する必要がある。

同書の中村竪横の項に
  「(中略)村中周廻境之儀は艮(北東)ヘ當たり葉山と申御立山也、東ハ三井村足谷山、北は徳山御領来巻村之山野、此所三ヶ村之の境にして(中略)」
  とあり、葉山は三井村境にある。

さらに、中村竪横の項は大川(島田川)を下り浜辺を伝い魚ヶ縁に出て、豊井村との間に複雑に入会権が混じった山域を述べたあと、
「右場所ヨリ特牛ヶ迫之中尾筋を上り山野峯尾切御立山深山北之隅迄廿六丁(中略)峯尾境葉山詰三井村境迄三拾丁、一村周廻り都合五拾七丁程也」とある。
すなわち、位置関係は、魚縁岡→深山→葉山→三井村境となる。

同書の山川之形勢の項に
「川口ハ平坦之地故田地勝ニテ人家茂多有之、御立山深山ハ乾(北西)ヘ當り葉山ハ北へ當り、其餘ハ山野境内山合壁入交ニ之有り、魚ヶ縁ハ海辺に高山峨々として磯伝ひ之通路仕候事」とあり
位置関係は、魚ヶ縁→深山→葉山となる。


「三井村境目書」(元文三年)の隣村境目書に
「(中略)水越峠と申伝候、夫ヨリ足谷山・葉山と申御立山弐ヶ所有、間之尾迄ハ右尾続峰尾切、此間之尾ヨリ南ハ浅江村分之御立山なり、先年ハ当村分ニテ御座候故如此ニ御座候(中略)尤浅江村よりハ三井村之内、南ハ美野越垰と云所より北西之間ハ足谷・葉山と云御立山弐ヶ所有之、尾切村境と申候得共、先年三井村ニテ御座候、其以後弐百八拾石余浅江村添石ニ相成候得共、村境之引分ケ無御座候故、先年之村境之通り如此御座候事」
とある。

「浅江村境目書」(元文三年)の隣村境目書に
「(中略)夫より大垰頭迄尾続尾切也、此所東は熊毛郡三井村、北ハ都濃郡徳山御領来巻村、南ハ当村三ヶ村之境也、当村之分葉山と申御立山也夫より佐屋か垰迄尾続峰尾切、此所北ハ都濃郡徳山御領来巻村、西ハ同御領河内村、南ハ当村三ヶ村之境也、此所之後徳山御領松尾山と申す御立山有之、夫より西へ当リ深山と申御立山頭迄尾続峰尾切、此所北は徳山御領河内村、西ハ同御領豊井村、南東ハ当村三ヶ村之境ナリ(以下略)」とある。

以上を勘案すると、葉山は三井村境の山で、中宮別れが2つの大山を分ける鞍部とすると、むしろ、手前の深山の山域と考える方が妥当のように思われる。

なお、「浅江村地理志」の山野(入会山)に大崩山の山名が見え、明治期に林野下戻されている。よくある山名なので同一の山とは確証できないが念のため記しておく。

おって、「河内村地下図」と地形図を参照すると「あやが谷山」か「こぐら山」に該当するに思われる。

その後の調査結果による結論はこちらです。

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2015年5月30日 (土)

虎ヶ岳・烏帽子岳・茶臼山完全縦走・外伝(1)瓢箪池

近年、茶臼山に瓢箪池ルートが開拓されたようだ。もう、20年近く前に登った頃には、茶臼山下から、ダム湖の奥に2つの池が見えた。そして、山頂からそう遠くない巡視路近くから奥の池に降りる登山道のかまぼこ板製道標があった覚えがある。  また、15年以上前に、ダム奥から池を目指して調査山行したことあるが、猛烈なヤブと湿地に撤退したこともある。  さて、この瓢箪池らしき池は、寛延2年(1749)の「一村限明細絵図」のみならず、更に遡る享保6年(1721)の絵図にも描かれているが、名前は書かれていない。 もちろん、瓢箪池は後世の俗称であるので、絵図のみならず古記録にその名前が書かれているはずがない。管見では、享保16年(1731)現在に既に存在した溜池を記した史料に、「大谷堤」の名前が見えるのが初見で、これが現在の瓢箪池のことを指している可能性が高い。但し、いつ頃に作られたのかは不明である。 本記事の無断転載はお断りします。  Copyright 2015 Yamakan Kenkyusyo

2014年5月16日 (金)

徳山藩御船蔵笠戸浦由来説について

最近刊行された『周南小景』を大変興味深く読んだ。

ただ、その中で「徳山藩の水軍と遠石の御船蔵」という一文で徳山藩の水軍は藩が成立したころは下松の笠戸島におかれていて天和3年下松笠戸浦から遠石浦に移された旨記述してあることが気になった。

『徳山藩史』には、天和3年(1683)に徳山藩の御船蔵を下松から遠石に移転したことが記述してあるが、下松のどこにあったかは記述されておらず、その所在地をめぐって複数の説が発表されてきた。下松市内では、『下松市史』にも記述されているように新町説(近年にはさらに詳しく室町説)が定説となっている。

さて、今回の笠戸浦由来説は元々『私達と遠石』から引用されており、その根拠として「都濃郡宰判海岸之図」において、現在の笠戸島本浦付近に御船蔵の文字があることがあげられている。この絵図の製作年は不明だが、都濃郡宰判の名があるようにこれは徳山藩ではなく萩本藩領の都濃宰判の末武村内笠戸島が描かれたものである。末武村(笠戸島を含む)は元和3年(1617)の徳山藩分知の際は徳山藩領であったが、元和7年(1621)の替地で萩本藩領となった。『もりのしげり』によれば、18宰判制度が成立したのは慶安3年(1650)以降でその中に都濃はなく、後年に16宰判に再編成され都濃宰判が成立する。したがって、この絵図は、笠戸島が徳山本藩領だった元和3年から元和7年の間のものという可能性は全くなく、少なくとも慶安3年(1650)以降のものということになる。そして、都濃宰判時代のものであれば、徳山藩の御船蔵が萩本藩領にあったという不都合が生じるのである。

さらに、笠戸島の御船蔵は、御船蔵が遠石に移転した天和3年(1683)年よりさらに60年近く後の元文・寛保期に作成された「笠戸島地下図」にも描かれており、しかも「都濃郡宰判海岸之図」の御船蔵、御番所の絵は「笠戸島地下図」に描かれたもののラフスケッチできわめて似ている。『下松市史』は「笠戸島地下図」の笠戸島の御船蔵は笠戸島の御番所に属する御船蔵であろうと指摘している。

したがって、「都濃郡宰判海岸之図」に描かれた笠戸島の御船蔵は、徳山藩の御船蔵ではなく、後年の萩本藩の都濃宰判の御番所に属する御船蔵ということになる。

下松にあった御船蔵は、『記録所日記』の「下松町東之方御船蔵之先、浜辺二町余片かわ、町人望申ニ付、是又申付候由、御船蔵ヘハ、為火用心四十軒程空地申付候由也」という記述から笠戸島側ではなく対岸側にあったことは間違いない。(ここの下松町は西豊井村の町方の下松町のことで、笠戸島は末武村である)

現在の下松市が藩政時代は萩本藩領と徳山藩領に別れていたことを理解することが必要である。もっとも、下松藩があったことを知る市民はほとんどいないのも事実だが。

なお、遠石へ移転後の記述にはまったく問題はなく、本としても興味深い伝承や古跡を紹介した大変すばらしいものである。

2014年3月10日 (月)

豊井村の古道を行く  2  能行の地蔵

下松中前の中央線の歩道を歩いていたら、小堂が建築中だった。不思議に思って地元の人らしい方に聞くと近くから移転するとのことである。

確か、旧武居酒場西側近くにお堂があった記憶があるので、行ってみると、まさにここで、お堂は撤去されていた。民家の出入りに支障が生じたのだろうか、やむをえず移転されることになったのだろう。

移転再建中の小堂に帰ると、石造物に金石文がみられ、判読を試みたが、文化八年程度しか読めないので、金石文の有識者Yさんに判読していただいた。以下の判読分はすべてYさんによるものです。ありがとうございます。

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これはお堂の敷石。一部分を移設したと思われる。

「文化八年辛未年秋九月朔日」

 (注)文化八年は1811年である

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これは地蔵の台座と思われる。中央部分が丸くくぼんでいる。

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台座正面

「三界萬霊」


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台座左側面

「願主  惣村中」

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台座右側面

「宝暦三年癸酉天 三月廿四日」

(注)宝暦三年は1753年である。

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基礎の上にお堂の上屋部分が載せられ、完成間近である。

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中を見ると小さな丸い石仏があった。

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完成した小堂

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2本の短い石柱があり、金石文が見える。

この地蔵は古道の位置をしらせるランドマークでできれば原位置を保って欲しかったが、地元の方の御理解で移転再建されただけでもありがたい。

この石造物については、「ふるさとの石造文化財」にも記されていない。今回、偶然、再建作業中に金石文を実見でき、小堂と地蔵の建造年に60年近くの差があることがわかるなど、大変、有意義だった。

(余話)
 昔、下松小学校の子どもたちはこのお堂が元あった古道を通学していた。このお堂の前も当然通ったはずだが、彼らの関心は旧武居酒場の石垣をどこまで駆け上がれるかということだけだった。

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2014年3月 8日 (土)

豊井村の古道を行く 1 寺迫の地蔵

下松小学校の裏山 の山裾を縫う道が「東西豊井村地下図」にも記された江戸時代の古道であることを知りながら通っている市民は果たしてどれだけいるだろうか。

この道は旗岡山山塊の山裾を縫いながら東進していくが、前面の畑等と明瞭な段差をのこしており、山裾を削って作られた雰囲気を感じることができる。

この道の前面(南側)は昔は畑であり、さらにその前面は江戸時代以降の開作で海であった。

この道は西教寺裏をすぎ、旧武居酒場の石垣の前をとおりすぎ、しばらくいくと、宮前寮跡地に出会う。南側にまがるとここに古ぼけた小さなお堂がある。これが「東西豊井村地下図」にも記されている「寺迫の地蔵」である。

この地蔵はこの地域のランドマークにあたるもので、明治初年の古地図にも記されている。

このお堂は、現在は青線(水路)上にも位置しているが、宮前寮敷地は昔は畑だったそうで、土地買収の際、若干の位置変更がされている可能性はあるが、ほぼ、江戸時代の位置を保っていると考えられ、古道の位置を知る歴史の生き証人である。

「東西豊井村地下図」によると、この古道はさらに海岸線側にむけて南下しているが、現在は中央線以南は日立グラウンド他により、その痕跡は一切確認することはできない。


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北側から  正面の道路までが古道の残存部分。

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南側から

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正面  やや左右前後に傾いている。

以上の画像の背後は解体前の宮前寮である。

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お地蔵様


宮前寮解体後、このお堂は広い跡地の側で寂しそうにたたずんでいる。心なしか傾きも増したようで、風よけにもなっていた宮前寮が無くなったため、強風の影響が懸念される。

この地蔵は、古道の位置を知る歴史の生き証人でもあり、なんとかこの位置を保ったまま、今後も残って欲しい史跡である。

なお、宮前寮敷地買収の際、住民は寺迫半上に移転した。また、宮前寮、宮前グラウンド付近の小字名を「海善寺」というが、寺跡は存在せず、この地蔵との関連は不明である。

(付編)

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宮前グラウンドから望む解体前の宮前寮。

半世紀前の夏休みには、寮の屋上から「今日は赤ちゃん」に続き「ラジオ体操」が流れ、グラウンドには周囲の多くの子ども達が集まりラジオ体操を行ったものである。

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2012年9月11日 (火)

「正保国絵図」に描かれた下松

「防長の絵図―美しき古地図の世界」展以来、「国絵図」を眺めてばかりいる。

「国絵図」は古代の国郡制に基づいた絵図で、その一地方だけを拡大して昔の姿を
考察するのには、慎重でなければいけないのはもちろんであるが、制約条件を十分考慮しながら見ていきたい。
(以下、「山口県文書館」HPの高精細画像で都濃郡周辺を表示するか『山口県史 資料編 近世3』の口絵の「正保国絵図」(周防国絵図)をご覧になりながら読んでいただきたい)

郡境は太い黒線で描かれ、村は小判形の図形(村形)の中に村名を記入し、村形の中は郡別に異なる色(都濃郡は朱色)で着色されている。村名下字は「村」に統一されておらず、「河内保」や「豊井保」の他に。「切山」のように下字がつかないものがある。この村形は、現在の地形図の地名表示のように妥当な位置に記されてはいないし、村境は一切表示されていないので、特定の地点がどの村に属するのかは判断できない。

村形の縁色は領主の区分を表し、黒色が萩本藩領(末武村、切山)、緑色が下松藩領(豊井保、河内保他)を表しているが、末武村は相給(複数領主)で「郷帳」では末武村三千九百五拾六石七斗弐升の内七百八拾石四升が毛利日向守へ遺置候となっている。

この領主区分の表示にあたっては複雑な経緯がある。下絵図を幕府の責任者井上正重へ内見したところ、支藩領(長府藩、下松藩)を区別して図示するよう指示を受けたが、萩藩側は一国を複数の領主が分割統治する場合とちがい、下松藩等は萩藩の一円朱印の領地で分知にすぎず、区別の必要が無く、下絵図どおりの提出を要望するも了承されず、遂に老中まで陳情するも、判断は覆らず、村形の縁色で区分することになった。

「毛利日向守居所」とあるのが下松藩主の居館で村形と同じ緑色で縁取られている。なお、この絵図で居所の詳細な位置を判断することが適当でないことは既に指摘されている。一見、村形の位置が近い河内保のようだが、実は豊井保にあった。村境はこの絵図に記されていないので、所属した村を判断することはできない。また、広大な領域をしめしているようだが、これは実際の領域ではなく、単なる記号と解さなければいけないのは、長府藩領主の居館を見ればわかる。

円形は馬継である。

朱線は道だが街道と脇道は線の太さで区別されている。「道の帳」では道を大道、中道、山道並小道、灘道に区分し、馬継間の距離、川の渡渉点、坂の名称が記されている。市内中央を東西に走る太線が周防小瀬から長門山中へ出る大道である。道の両側に黒点の印は必ずしも一里山があった地点ではなく、図上の参考で記されている場合がある。

山岳は水墨画風の山形で表示されている。
花岡の北部、岩熊山、深浦、鷲頭山、宮ノ洲に森のような模様が描かれているが、これは藩の山を表していると思われる。

さて、絵図には、市内に二つの河口が描かれている。東側の河川は上流で二つに分岐している。絵図中に川の名称が記されているが、同じ流路でも各地点で川の名称は異なっている。この川の名称はあくまで渡
渉点での名称である。

流路の精度の問題はあるが、西側の川が現在の末武川に該当することに衆目は一致している。問題は東側の川である。仮に東側の川の東側上流を川A、西側上流を川B、合流後の下流を川Cとすると、川Aに河内川、川Bに切山川、窪市川、川Cに下松川と記した地点が存在する。

『下松市史』は河内川を現在の切戸川、切山川を現生野屋川、現平田川、あるいは現玉鶴川としている。

これに対し、『下松市史異説』は平田川が久保市に流入することはなく川Aの河内川と川Bの切山川はいずれも切戸川で河内川は支流の吉原川、切山川は切戸川本流上流としている。また、河川Cは平田川と切戸川が合流することはないので切戸川としている。

筆者は、これら2説に対し、以下の説を主張したい。
結論からいえば、これらの川の名称は渡渉地点の名称にすぎず、絵図上の川の流路を特定の河川に同定することはできない。特定地点の川幅等は確認されているが、流路を遡行しての継続性は確認されておらず、種々の情報がつぎはぎされた仮想上の河川が描かれているに過ぎないと考える。
渉点としての河内川と切山川が現在の切戸川であることに異論はない。ただし、流路としての川Aは吉原川ではなく、左岸に鷲頭山と考えられる山があり、切戸川と考えられるが、途中で消えて表示されている。川Bの上流部と川Aが接続するのが本来の姿である。

川Bは現在の平田川及びその上流生野屋川と切戸川上流の山田川若しくは切山川をあやまって同一の河川として描いてしまったものと考える。生野屋川の最源流部は山田村の後浴にあり、山田川の最源流部ともあまりはなれておらず、山田村から久保市にかけて複数の河川が複雑に曲がっており、このような間違いが起きたと考える。

川Bの上流部で花岡市より瀬戸通須々万へ出る小道が広三間の小川と交差し渡渉しているが、この間に分水嶺があり、切戸川上流とは考えにくい。分水嶺手前の山田川、切山川の源流部の可能性があるが、むしろ、温見地域の末武川の上流部を誤認した可能性があると考える。

川Cは切戸川と平田川の合流した河口ではない。『
下松市史が「河川の下流部は後世と異なっている」と記しているのは、絵図に描かれた河川の流路が後世の流路とは異なるという意味で、実際の流路が絵図どおりであったと主張しているのではないと解すべきである。一村限明細絵図が作成されるまで、河口部での2つの河川の違いはあまり認識されていなかったか、認識されていても国絵図の段階ではいずれかの河川が省略されたと考える。川Cが下松川の地点で豊井への道と交差しているのとは別に、川Bが下流付近で居館への道と交差しているので、本来、別の川である2つを混同している可能性が高い。

実は、上流が二つに分岐する東側の河川は「慶長国絵図」にも描かれている。「慶長国絵図は地形の正確性では「正保国絵図」以降の国絵図より優れており、末武川の上流部は温見まで描かれている。また、下流部が河川Cとして合流している点を除けば、川Bは山田から流れ、川Aは切山から流れ、それぞれ、現在の平田川、切戸川に同定可能である。(詳しくは『慶長国絵図集成』をご覧ください)

「正保国絵図」は特定地点の追加情報を誤って適用したために、「慶長国絵図」より地形表現が退歩してしまったと考える。道についてもいろいろ問題はあるが記さない。

なお、以上の考察から、「正保国絵図」の「毛利日向守居所」については、詳細な位置はともかく、概略の位置として、平田川と切戸川に挟まれた山麓南面を示すことを意識したものと考えられる。残念ながら、地図が不正確なため、後世にいろいろな解釈を生み出すことになった。

    参考文献
       国絵図研究会『国絵図の世界』
       川村博忠『国絵図』
       川村博忠『防長の近世地図史研究』