尻高山・高壺山・砲台山総合概念図

  • Kasadoallnew
    尻高山・高壺山・砲台山総合概念図

笠戸島スカイハイキングコース地図(「地理院地図」版)

十種ヶ峰

  • 福谷池から見る十種ヶ峰
    十種ヶ峰福谷池コース

鷹の止まり山

  • 5 山道
    鷹の止まり山(04.04.17)

山上山

  • 11
    山上山

廿木山

  • 32 270ピークに戻る
    廿木山

枡形山

  • 05 山道が続く
    枡形山

四熊ヶ岳庄原コース

  • 17 日本の正しい秋
    四熊ヶ岳庄原コース

太華山大楠ルート

  • 02大楠バス停付近からめざす鞍部を遠望する
    大楠から牧ヶ岳南の鞍部に出て、北進すれば牧ヶ岳、太華山へ、南進すれば水谷山を経て本浦に出ます。太華山のバリエーションルートの一つですが、南進して水谷山方面へ進むと森の中のパノラマ展望ルートになります。大楠から鞍部までの画像を掲載しています

太華山縦走

  • 06 大島山の分岐に建つ石柱
    太華山縦走

千坊山西の庄ルート

  • 27
    千坊山西の庄ルート

小島山

  • P1010001
    小島山

フィールド・ワーク Feed

2016年6月29日 (水)

周防大島伊崎山・佐連山の戦時遺構群の謎について(完結編)

われわれ「シダ山突撃隊」が発見した周防大島伊崎山・佐連山の戦時遺構群について、工藤洋三先生が「周防大島の佐連山と伊崎山にあった聴測照射所」(山口県地方史学会『山口県地方史研究』第115号所収)を発表されました。

 専門家の調査を期待していましたが、今まで謎だったコンクリ道のことや不明だった聴音機の位置を明らかにされています。ぜひ、一読をおすすめします。

 最近は、複数のメディアをつかわれたサイトが本家的な情報発信を続けられ、すっかり陰が薄くなりましたが、今回の論文でわれわれの踏査を再評価していただいたことを非常にうれしく思います。

 ここで、踏査の経緯をもう一度ふりかえってみますと、最初のきっかけは佐藤正治氏の「周防大島町戦争遺跡案内」において、地元の方の話として、伊崎山山頂付近に特設見張所があり、聴音壕なども残っているという記述を見つけたことでした。

 当時、伊崎山はヤブ山で登山者はほとんどいませんでした。さいわい、岳友G氏のルートマップがありましたので、2012年3月3日、単独行で山頂を目指しましたが、赤テープはあるものの、山頂まで約2時間を要し、ようやく山頂についたもののそれらしき遺構はなくあきらめかけたものの、下ったところで波印海軍標石および探照灯基礎を発見。この探照灯基礎周辺は誰かが土をめくっていた形跡がありました。遺構の同定はFatherさんにお願いしました。

 3月10日、再踏査で建物基礎、管制機基礎を発見しましたが、肝心の聴音機壕は発見できませんでした。バスで現地登山口まで行っていたので、山頂までの登山時間、下山時間を除くと実際の調査時間は約2時間しかありませんでした。

 翌3月11日、岳友G氏と笠戸砲台の軍用道路、発電所、油脂庫、水槽を発見した「シダ山突撃隊」を再結成し、主に南西尾根を踏査し建物基礎、管制機基礎、排水溝を発見しましたが、この尾根のヤブは手強く、聴音機壕はまたしても見つかりませんでした。

 3月24日、北西尾根を踏査、倒木の下をはってくぐり、トイレ遺構を発見。さらに、倒木帯を進むと全く時間が止まったかのような廃墟となった兵舎群を発見。ここでタイムアップ。あとから時計が進んでいたことに気づきました。なにしろ、帰りのバスの時間との競争だったのです。

12年11月某日、どうしても、聴音機をみつけようと、北西尾根を旧三角点までくだり踏査しましたが見つけることは出来ませんでした。

その後、fatherさんが空中写真の解析により、佐連山にも聴音探照所が存在する可能性を指摘されました。

 さて、佐連山は伊崎山以上のヤブ山でほとんど登る人はいませんでした。そこで、再び、「シダ山突撃隊」を再結成。

2014年12月21日、空中写真の解析から軍用道路跡が残存するとおもわれた大積から登りましたが、途中で道は消え、むりやり尾根にのぼりあがりましたが、かづらに足を取られ難渋、やっと山頂に到着。展望はないものの広く落ち着いた感じの良い山頂でした。

佐連に下る尾根に古い赤テープがあり、疎林の感じの良い尾根道でしたので尾根をくだっているとモルタル片を発見、その先に探照灯の基礎を発見。いつもは冷静なG氏がこのときばかりは少し興奮されていたことを思い出します。さらに下ると、なぞのコンクリ基礎、コンクリ道、集水枡、甕、環状土塁を発見しました。

12月23日、尾根道を気に入られたG氏と佐連から再踏査。トイレ遺構と擬装用のスリットが入った発電所とおもわれる建物を発見。目を上げて遠くに夢幻のようにこの建物が見えたときは声をあげました。あの感動は忘れられません。

この踏査について、いつものように的確なルートファインディングをしていただいた岳友G氏と戦時遺構に関する的確なアドバイスをいただいたFatherさんに重ねて謝意を表します。

この山域に入ることはもう2度とないと思いますが、この戦時遺構群が未来への戒めとなって、平和が続くことを念じてやみません。(了)

2015年10月 7日 (水)

大地之森

豊井小学校前をすぎ、さらに東に進み、江口幼稚園をすぎ、消防倉庫を見るとすぐ、石祠とお堂がある小さな森がある。

「東豊井村由来付立」に

 一 大地之森 原村ニ有

とある。

現在は北側が駐車場となり、樹木が少ないが、『宮洲塩田図』を見ると、北側はずっと大きな森だったようであり、現在も樹木に禁忌が働いているせいか、車道が不自然に曲がっている。

P1011166

東に石祠、西にお堂。

P1011164

石祠

P1011165

お堂の手前に、石祠の残骸があり、以前はこちらにあったのであろう。

P1011167

左の樹木の側に車道がある(写真には写っていない)のだが、不自然に曲がっている。

なお、大地ノ森あるいは王子の森は各地にある。

2015年10月 6日 (火)

鷲頭山・烏帽子岳稜線上の謎の標石について(小結)

承前

明治維新後、集落の共有林は、官有林(国有林)とされたが、明治35年、林野下戻により、町村有とされ、町村の基本財産に編入された。各町村では、境界標石を埋設、造林を行った。

久保村でも、明治35年に村有林に譲渡後、明治38年から10カ年の造林を実施、大正元年から大字河内山林200町歩、40カ年の人工造林計画を実施、大正4年には888間の防火線工事を行っている。

ところで、「久四三」標柱のあった字北山の集落共有林は、明治15年、地元からの申し出にも関わらず、他の集落共有林と同様、官有林とされた。その後、林野下戻しを受けたと考えられる。

以上の事実を勘案すると、これらの標石は、林野下戻を受け造林が行われた時に埋設された境界標石の可能性が高い。旧村有林標石は、各地でみることが多いが、この標石には番号が刻まれているのが特徴である。番号は、地域的に連続していないので、林野下戻の際、付与された地番ではないだろうか。明治39年に、下松町、久保村、浅江村共有林を下松町に譲渡した際の報告に地番(整理番号)が付記されている例がある。

ただ、尾根上の標石番号と同一番号の標石が谷側に存在するかどうか確認できていないことが検討課題である。

なお、官有林認定された際に埋設された可能性もあるが、その可能性は小さいと考えている(了)

2015年5月10日 (日)

鷲頭山・烏帽子岳稜線上の謎の標石について

Sekihyo2

中宮別れから烏帽子岳の稜線に「久□□」、「浅□□」と刻まれた標石が分布している。

「久」「浅」はそれぞれ久保村、浅江村を指しているとおもわれるが、両村の存続期間は明治22年から昭和14年で、その間に設置されたものと思われる。一見、久保村と浅江村、勝間村の村界標のように見えるが、深切山から中宮までの稜線にも1基あり、さらに、図中には表示していないが、下松市北山南麓の稜線上にも1基「久四三」が確認されているので、村界標ではない。現在のところ、すべて稜線上で確認されているが、未確認のものが稜線以外にある可能性が高い。

いずれにしろ、さらなる標石の確認が望まれる。

Img_1446

烏帽子ヶ岳の三角点のすぐ側の「久四」。

この標石の謎に関して、その後の資料調査による「小結」はこちら。

2015年4月28日 (火)

三井村妙見道探索行

Img_1542

道標の側に古道跡があるので探索してみることにした。なお、崖際の杣道の部分もあり、滑落の危険性があるので、安易に入らないこと。

左側が尾根の登山道、右側が古道跡。奥に三井村妙見道の道標。手前の角柱標石「久五」は、この稜線に分布する標石のひとつで妙見道とは無関係である。

Img_1559

「西 妙見社中宮是ヨリ廿八丁 新山村中」

Img_1561

Img_1544

やや古道側に傾いている

Img_1545

Img_1546

ヤブが深くなる

Img_1547

道が崩落し、草が生えている。赤リボンはヤブ山愛好家によるものか若しくは地籍調査によるものか

Img_1548

崩落地点を振り返る。

Img_1549

Img_1551

杣道になる

Img_1552

やや広くなる

Img_1553

麓の養鶏場が見える

Img_1554

このあたりは、林道並みの広さがある。

Img_1555

掘り割り状の道

Img_1557

植林帯に出た。赤リボン下に地籍調査標石がある。このまま、この道が続くと思っていたら、この後、尾根が回り込む地点で通行不能な大藪になり、道が消失。仕方ないので少し戻り、南東の伐採尾根を見つけ、どんどん下ったが、急崖になり、引き返す。

元来た道を引き返そうとして、道に迷い、とにかく高い方を目指したら、稜線にでる明瞭な掘り割り状の道に出会い、道標地点より東側の稜線に出た。

Img_1558

道標東側のピークから急降下すると鞍部に再び道標(画面中央)が見えてきた。今回のルートの一部は、地理院地図で表示されている道とおもわれる。

Myouken

妙見道は満願寺西の浴が入口なので、今回、尾根が回り込んだ行き止まり箇所よりさらに東に山腹をトラバースする道があった可能性が高いが、古い空中写真を見るとその先は伐採され、現在は大藪となって道が消失している可能性が高い。(15.04.08)

(C)2015 Yamakan Kenkyuusyo All Rights Reserved.

2015年4月16日 (木)

虎ヶ岳・茶臼山縦走路に人知れず佇む三井村妙見道の道標

Img_1478

桂月院から虎ヶ岳を経て茶臼山に縦走する途中、今まで気がつかなかった円柱の道標をみつけた。

銘文

 「西 妙見社中宮是ヨリ廿八丁 新山村中」 

これは、三井村の新山から、鷲頭山の妙見社中宮(現在の降松神社中宮)へ向かう妙見道の道標である。径22cm、平均露出高97cm、花崗岩製、保存状態良好。

妙見社中宮へは、現在の下松市側の山田村、生野屋、成川、来巻村からのみならず、虎ヶ岳・茶臼山山塊を超えて、浅江、大河内、三井から妙見道が存在したことは、既に河村蒸一郎「妙見道と鷲頭氏の勢力圏」で報告されている。

同論文によれば、三井村妙見道は満願寺西の浴から入り、虎ヶ岳・茶臼山の稜線に出た後、現在の中宮別れから、中宮への支尾根沿いの古道を行くことになる。

満願寺付近は、三井村側の小名として「新山」、浅江村側の小名として「新山」と呼ばれていた。

Img_1479

この道標は、東麓からの古い山道の痕跡(画面右)と、左側の虎ヶ岳・茶臼山稜線の尾根道(画面左)の合流点にあり、銘文は、道標の古道側に面して刻まれている。画面奥が虎ヶ岳方向、画面手前が茶臼山方向で、中宮別れで妙見社への古道に別れる。したがって、これは三井村妙見道の道標に間違いない。

管見では、この道標が三井村妙見道の道標であることについて、各種文献のみならずWeb上の山行記事等にも報告されておらず、新たな知見である。

なお、「近世以前の土木・産業遺産」によれば、円柱の石道標は全国的にきわめて珍しく、貴重な文化財といえる。(15.04.16)

画像の無断転載はお断りします。

(2015 山勘研究所 All Rights Reserved.)

Myoukenn

2014年12月29日 (月)

周防大島 佐連山の戦時遺構について(3)

平成26年12月23日、岳友G氏より、先日の下りに使ったルートでもう一度登ろうではないかとの提案があり、すぐに賛成。G氏は、先日もこのルートの感じのよさにいたく感心されていたのでもう一度のぼるのではないかという予感がしていたがそのとおりだった。小生も落ち葉積もる道や疎林が気に入っていた。前回は、古いテープはあるものの、はたして麓まで続いているか危惧しながらの山行だったが、今回はその心配はなく楽である。詳しいルート案内はG氏のブログ「山へgomen...山口県の山歩き記録」をご覧ください。

Img_0902

登山口Img_0905

鞍部。右にストラップが舞っている。

Img_0906

Img_0908

なかなかいい感じである。

Img_0909

岩場もある

Img_0910

広い平坦地に出た。

Img_0911

弧状の土塁

Img_0913

後方の削られた崖。土塁と崖で環状になっている可能性から、聴音機壕とも考えたが、平坦地の端部は土塁部分を除きまったく水平で、空き地は落ち葉が厚く積もっており、コンクリの反応は検知できない。

Img_0915

むしろ、長方形の2辺とおもわれる落ち込みが目に付いた。スケールが落ち込み部分。このような落ち込みは、建物周囲の雨滴の落ち込みあるいはトレンチが埋まった可能性が強いので何らかの構築物があったのではないかとおもったが、基礎はまったく発見できず謎である。

Img_0918

後方の崖を上がり尾根にでると、周囲を石組みが囲い。その下の段にも石組みが見える。

この石組みの先はかずらの原野となっている。

Img_0917

石組み中にモルタル片が混在する。

Img_0919

これは下の平地だったか、上の尾根だったか、忘れてしまったが、尾根上はやや盛り上がっており、建物が建っていた可能性は低い。

Img_0897

平坦地を出ると、尾根を少し削り、退避スペースらしきものがある。その前に、隅丸型の集水枡となぜか甕がある。

Img_0920

尾根裾を長さ20m幅1,5mのコンクリ舗装がある。

Img_0921

コンクリ舗装端。奥の崖側に低い石組みがある。

Img_0923

尾根を削って建物の基礎と、前方に鉄塔の基礎とおもわれるものが2基ある。

Img_0924

Img_0925

Img_0926

基礎には径12cmの穴が斜めに開いている。接続用の鉄板1対が残っており、径1,5cmの穴がある。この鉄板の角度は60度である。2基の基礎の穴の方向は対称的ではなく、手前側の基礎の方が建物に対して開いている。

Img_0927

何らかのポールが接続されていたとおもわれるが、2基だけでは自立できないので、後ろの建物に接合されていたのだろうか。

Photo図には記入していないが、前面左側に石積みの排水溝がある。

Img_0928

建物の先の尾根をあがると石組みによる段上地形が2段あった。尾根の右側はかずらの原野で踏査不能である。

Img_0929

ここで、尾根裾を探索していたG氏より「水槽がある」との声があがる。前回の山行後、空中写真をよくみると、尾根の西側に水平道と遺構があるように見えていたので、建物のすぐ上の尾根からも水平道を探索してもらったが、その時はみつからなかった。2箇所目の地点で尾根を大規模に削平した空き地が存在した。一見して、トイレ遺構としたが、水槽かもしれない。

Img_0930

ふと、目をあげると、前方かなたに夢幻のようにレンガ建物がみえた。「あ、あれは~」と大声をあげた。入り口。

Img_0935

レンガ建物は結構みてきたが、外壁にスリットらしきものが入った建物は初めてで、凄い存在感がある。このような外壁は「FatherのHP」さんを参照すると、亀ヶ首防空砲台の指揮所にあるようだ。

Img_0937

右側面

Img_0936

集水枡と奥は流路とおもわれる

Img_0940

左側面。手前に建物基礎

Img_0938

その前方に集水枡。

Img_0939

建物基礎は2つの間に分かれている。

Img_0933

Img_0944

建物内側。外壁のスリットと見えたものは内側に貫通していない。奥に窓。底面に屋根として使われていた物か不明なトタンが置かれている。中央部に何らかの台座とおもわれると基礎がある。この建物には庇が一切ない。また、奥に窓があることや、間口の狭さ、天井がないことから、油脂庫ではないとおもわれる。あえて、推測すれば、発電所付属建物かとも思えるが、発電所特有のコンプレッサー基礎や冷却水槽が存在しないことから疑問である。敷地の割りに建物のスペースが小さく、あるいは、建物に気をとられ、他の基礎を見逃しているのかもしれない。

Renga

Img_0932

Img_0941

この平地後方の崖は約10mで、大規模土木工事だったとおもわれる。

Img_0945

尾根裾の水平道。レンガ建物方向を振り返ったところ

Img_0946

尾根に戻り、上に上がると探照灯基礎がある。レンガ建物はこの尾根の左下直下になる。

Img_0947

後方に、平坦地がみえる

Img_0883

この平坦地が管制機の有力候補地と推定したが見つからなかった。

Sarenmap

以上のことから、現時点で、この遺構群は、南東尾根250m周辺付近に上図のように分布しているとおもわれる。兵舎が発見できないことが不思議だが、一番下の広い平坦地あるいはその上の石組み尾根でないとすると、踏査不能な領域に残存しているのかもしれない。今回、われわれは今まで知られていなかった戦時遺構を初めて確認した。識者の追加調査の結果を待ちたい。

Img_0950

Img_0952

2日ぶりに山頂に着いた。戦時遺構は別にしても、いい山だった。平成27年は佐連山の山開きの年になるかもしれない。

今回の山行にあたり、いつものように的確なルートファインディングをしていただいた岳友G氏と戦時遺構に関する的確なアドバイスをいただいたFatherさんに謝意を表します。

周防大島 佐連山の戦時遺構について(2)

幅広い尾根をくだり探索を開始したところ、大きなヌタ場を発見。まるで、これから横穴式石室でも掘ろうかというような大きさだ。伊崎山の時もヌタ場近くで海軍標石を発見したので、前兆かとなお下ると次第に尾根は狭くなるが何もない。空中写真の地点はもう過ぎたはずだが何もない。もうすこし下ってみるかということになり、なおもくだると、赤レンガの半片を発見。

Img_0870

笠戸砲台に子供たちが赤レンガを運んだ道を探索した時を思い出せる。

Img_0871

近くに穴らしき落ち込みもある。そういえば、ここまでの尾根道に小さな土孔らしきものがあったが遺構とは判定できなかった。

Img_0872

さらにおりると、トタン板をかぶせた箱が出現。この箱は埋設されていない。これはいつの時代のものだろうか。

なおをおりつづけると、さらにレンガ片を発見。いずれも、孤立しており、散布状態でない。下から目印のために持ってきたものだろうか。

Img_0882_2

そうするうちに、下方に人工的に整形された平坦地を発見。

Img_0877_2

モルタル片が散乱している。

Img_0880_2

周辺を探索して、ふと下をみると、円弧状のコンクリが露出していたので、表土を掃ってみた。

Img_0887_2

径130cm、アンカーボルト6本。探照灯の円形基礎である。Fatherさんの予言どおり、佐連山にも戦時遺構が存在した。

Img_0874_3しかし、あわてて、こんな写真を撮ったり、スケールもないため、満足な記録は取れなかった。

Img_0889_2

しかも、さらに下におりると、こんなものや

Img_0896_2

こんなものまであらわれた。集水枡と甕、手前の草の下には20m続くコンクリ舗装。

さらに下には広い平坦地があらわれ、これらがはたして戦時遺構であるか確証がつかめないまま、下山となった。

Img_0901_2

この道は、やや急なところはあるが、厚く落ち葉が積もった趣のある森と道であった。

麓の佐連の浜が見えてきた。

Img_0903_2

佐連集落からみる佐連山。電線の間に見える山。(続く)

2014年12月28日 (日)

周防大島 佐連山の戦時遺構について(1)

Img_0930

(南東尾根裾上の謎のレンガ建物  詳細は次号以降)

周防大島伊崎山の戦時遺構を確認してから、「FatherのHP」さんが、佐連山にも聴音照射所がある可能性を指摘されていた。関心はあるものの、伊崎山の麓からみる佐連山は比高が高く大きな山塊で、とても単独行では手に負えそうもなく、懸案のままとなっていた。体調も悪く、山行人生も残り少ないように感じられ、心残りは佐連山である。 そこで、佐連山に登ったことがある数少ないハイカーである岳友G氏の先導で調査山行することとなった。

 笠戸砲台の旧軍用道路を探索したこのコンビを、そのときの猛烈なシダこぎから名づけて「シダ山突撃隊」と呼んでいる。伊崎山の南西尾根に聴音機を探索したコンビでもあるが、伊崎山の聴音機遺構は未発見である。  

 平成26年12月21日、岳友G氏の前回山行ルートの大積から登山開始。地形図の破線を軍用道路跡と推定していたが、どうも荒廃したみかん園の段々畑のようで、コンテナレールが残置されている。水平な段はあるものの、道はなく、無理やり尾根に直登するものの、前日の雨で滑りやすい。やっと尾根に出て、みかん園の作業小屋や水槽をみるものの、やがて、竹林帯や猛烈な倒木帯に入り、かずらに足をとられる。「シダ山突撃隊」ではなく「かずら山突撃隊」である。こりゃあ、「しゃれにならん山だ」とつぶやく。山頂近くまでみかん園の段々畑跡がつづく。このルートは地図読みができるヤブ山愛好家にしかお勧め出来ない。

ようやく着いた山頂は、高木の中にぽっかり開いた青空が好印象の広い山頂だ。展望はない。こういう山頂が好きだ。最近、展望のため無理やり切り開かれた山頂が多く、何だかなあとおもう。山頂は展望がなくてもいい。木や森さえあればよい。

Img_0952

Img_0953

しかし、今登ってきた道を戻ることができるかどうかで頭の中は一杯である。(続く)

2014年12月11日 (木)

脇古墳

Img_0821

富海に横穴石室の脇古墳がある。すでに封土は消失し、石材が露出しているが、低い尾根端に存在していたと考えられる。

石室長7.6m、玄室長4.1m、玄室幅1.5m、羨道長2,2m、天井石2枚、一石五輪堂あり

『防府市史資料II考古資料・文化財編』

Img_0822

Img_0823

Img_0824

Img_0825

Img_0827

船蔵。このあたりの地形は開作前には海岸に直接面して、船の発着をしていたと思われる段差地形が現存している。

Img_0830

Img_0829